
サンノゼの住宅街。午前6時。まだ暗い。Damon Chen(デイモン・チェン)はリビングのデスクに座り、コードエディタを開いた。隣の部屋で子供が寝ている。今のうちに1時間だけ集中する。画面にはStripeのダッシュボードが小さく最小化されていて、昨日の売上が表示されている。ベビーモニターの緑のランプが、静かに点滅していた。
年商130万ドル。プロダクトは2つ。社員は最近まで自分だけ。
チェンが運営する Testimonial.to は、企業の顧客の声を動画で集めて表示するツール。もう1つの PDF.ai は、PDFファイルに質問するとAIが答えてくれるサービス。どちらも、チェンが1人で作った。妻に「1年以内に年収10万ドルを稼げなかったら会社員に戻る」と約束して独立した。その約束を、10倍以上で達成した。
8年間の「普通」が、静かに終わった日
Ciscoのオフィス。会議室のホワイトボードには、スプリントのタスクが並んでいる。チェンは自分の席に戻り、メールを開いた。昇進の案内。年次レビューのスケジュール。技術とは無関係なメールが、受信トレイの半分を占めていた。
なぜ、エンジニアとして入社したのに、会議の準備とメールの返信に1日の半分を使っているのか。
チェンはペンシルベニア・ステート・ユニバーシティ卒。Ciscoでソフトウェアエンジニアとして8年間働いた。サンノゼ。シリコンバレーのど真ん中。年収は公開されていないが、Glassdoor等の給与データによればCiscoのシニアエンジニアの平均は15万〜20万ドルとされている(あくまで一般的な水準であり、チェン個人の年収は非公開)。家を買い、家族を養い、昇進を目指す。シリコンバレーの「正しい人生」を歩いていた。
「I realized I was spending more time playing politics for promotion than actually writing code.」(昇進のための政治に使う時間のほうが、実際にコードを書く時間よりも長くなっていることに気づいた。)
8年間で、昇進のために政治をする時間が増えていく。コードを書く時間は減っていく。それが「キャリアアップ」の実態だった。
2020年、COVID-19で在宅勤務に切り替わった。リビングのデスクでZoomミーティングに参加する。隣の部屋では1歳の子供が泣いている。ミュートにして、あやしに行って、戻ってくる。通勤がなくなった分、子供と過ごす時間が増えた。しかし同時に、「この通勤時間って何だったんだ」という疑問も湧いた。
チェンは6ヶ月の無給休暇を申請した。Ciscoは認めた。理由は「育児」。しかし本当の目的は、サイドプロジェクトを本気で試すことだった。